廃線めぐりV−2
そ の 6 上 信 越 ( 第 2 回 )
3−3 草軽電気鉄道(1962年廃止,新軽井沢−草津温泉55.5km)
 現在,上野から草津へ行くにはJR吾妻線が最もポピュラーなルートだが,今から30年程前は信越本線を経由し,軽井沢で草軽電鉄に乗り換えて行くしかなかった.
 この草軽電鉄は,明治中期に別荘地として開発された軽井沢と,古くからの温泉街草津とを結ぶ目的で敷設された.軽井沢から草津まで直線で32.7Kmしかないが,当線の路線長はその1.7倍もある.これは極力山の地形に逆らわないように,山裾をほぼ高等線に沿って線路が敷かれているためである.そのため,山間部の割にトンネルは少ないが,急曲線がかなりある.
 列車はすべて電気機関車が客車や貨車を牽く.アメリカのジェフリー社製の電気機関車は17両あり,鉱山用機関車を改造したという独特の形態をしている.ピューゲルを垂直に立てたようなパンタグラフや小さな運転室など,まともな機関車とは言い難い.客車もバラエティーに富んでおり,東武伊香保軌道線の電車を改造したものも何両かいた.当線は沿線で産出される硫黄を運ぶため,多数の貨車を所有していた.
 草軽電鉄の列車は国鉄軽井沢駅のそばにある新軽井沢に発着する.軽井沢の中心街旧軽井沢,温泉のある小瀬温泉,スイッチバック駅の二度上,北軽井沢,嬬恋,上州三原,万座温泉口を経て草津温泉に至る.
 昭和34年に嬬恋−上州三原に架かる吾妻川鉄橋を台風のため流失し,それが原因となり翌35年に新軽井沢−上州三原を廃止,その1年半後には残る区間も廃止された.
 初めて軽井沢に行ったのは1982年の夏であった.家族旅行で,会社の別荘に泊まってサイクリングなどを楽しんだ.当時から軽便に興味を持っていたので,廃線跡や保存車両などの調べは事前についていた.まず軽井沢町公民館.ここには草軽で使われていた電気機関車が1両保存されている.公民館は軽井沢と中軽井沢の真ん中あたりの国道沿いにある.庭の片隅に小さいが立派な上屋があり,その下に紺色に塗られたL型の機関車,デキ13が置かれていた.車体はところどころ腐食してはいるが,廃止から20年を経ているにしては保存状態はよい.運転室内を覗くと中はとても狭い.よくもまあこんな所に座って運転ができたものである.なぜか運転台に木材が立てかけてある(しかし,2000年の夏に軽井沢を訪れた際に公民館に寄って見ると,デキ13は姿を消していた。解体されたか,と思ったが,軽井沢駅前に新たに造られた資料館のような施設に大切に保存されているのを見て安心した).
 公民館をあとにして,北軽井沢に向かう.鬼押し出しに行くついでに寄ってもらうことになっていた.草軽の線路跡につくられた白糸ハイランドウェイを北上すると北軽井沢に出る.北軽井沢は当線のちょうど中間にある要衝駅で,旧駅舎がそのまま喫茶店になっているというのである.北軽井沢駅はバス停の近くにあり,すぐに見つかった.なるほどガイドブックの情報の通り喫茶店になっているが,何と不幸にもこの日は定休日であった.車の中から見ただけに終わったが,店の裏側にあった筈のホームは残っていただろうか,また今でも営業しているのだろうか.その後も軽井沢には何度も行ったが,北軽井沢には交通の便が良くないこともあって行っていない.気になるところである.
 1992年秋,上越旅行の帰りに軽井沢に立ち寄り,新軽井沢から旧軽井沢まで線路跡を探して歩いてみた.新軽井沢駅跡地は現在草軽交通タクシーの車庫と町営の公園になっている.その公園を抜け旧軽井沢に向かう細い裏道が恐らく線路跡であろう.その小道は住宅の間を通り,「旧軽ロータリー」と呼ばれる大きな交差点に続いている.この辺りに駅があった筈である.しかしすでに廃止後30年を経過し,軽井沢の街も大きく変わってしまった.店が建ち並び,草軽があった頃の写真の風景とは比すべくもない.この近辺では駅の跡地すら見つけるのは困難であろう.
 宮脇俊三著『失われた鉄道を求めて』(文藝春秋社刊)によると,街の中を除けばほとんどの線路跡が道路として残っているとのことである.

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