廃線めぐりU
関 東 ( 3 )
U−5 武州鉄道(補足)
 その3で紹介した武州鉄道であるが,先日新たに線路跡を調査したので改めて紹介する.
 1994年4月,筆者の家のすぐ近くに4年制の大学が開校した.先日,どんなものか見に行ってみた.県道浦和岩槻線から大学の正門へ通ずる道路が新たにできていたのだが,何とその道路の半分は武州鉄道の路盤が再利用されていた.しかも大学の敷地は道路の延長上にあるので,線路跡をまたぐ形で学校がある. こんな田舎であるから半世紀も前の線路跡といえどもなくなることは滅多にないであろうとタカをくくっていたが,今回の大学の例もあるのでことここに至り,市内にいくつか残るといわれる未訪問の線路跡を探索することにした.
 4月中旬の曇りの土曜日のことであった.20年以上住んでいる土地である.市内の地理には詳しいつもりであった.しかし線路跡を意識して見つけようとしたことはなかった.「灯台下暗し」とはこのことである.
 大学から北側は市街地であり,線路跡らしきものは見かけた憶えがないので南側をたどっていくことにする.現在大学の敷地になっている場所は以前にも線路跡を見に来たことがあるが,そこから先は未確認であった.
 線路跡は大学のすぐ裏側から南西の方角へと続いていた.この付近は高台になっており辺りは畑が多く,道床だったところだけ植えられている作物や木の種類や生え方が違うので線路跡をたどるのは容易である.
 しばらく行くと土地が低くなり田園地帯になる.途中舗装され道路になっている箇所が少しあるが,ほとんどは畦道や空き地になってそのまま残っていた.また,線路跡の敷地には町工場や民家もいくつか建っていたが,そのどれもが道床幅に忠実に合わせて建てられており,一本の細長い敷地に建物がズラリと並んでいるのはよく見るとおかしい.
 工場などに使われている箇所を過ぎると,今度はおびただしい雑草が生えており,線路跡に自転車で乗り入れるのは困難となった.幸い不思議なことに線路跡に沿って舗装された小道があったのでそこを走った.道床には雑草が茂り潅木が生えている。
 線路跡はそのままひたすらまっすぐ1キロ程続き,小さな川を渡るところで途切れた.そこには橋桁の土台と思われるコンクリートの建造物が残っていた.そういえば,小学校社会科の教科書にここの写真が掲載されていた.
 その小川の向こうは道路をはさんで綾瀬川という川幅20メートル程の川があり,線路もそこを渡っていた筈だが,橋梁の跡はどこを探してもなかった.綾瀬川を渡ると国道と高速道路(東北自動車道)が平行して通っていて,それを越えると浦和市である.線路は道路を斜めに横切っているようで,筆者も道路を渡り反対側を探してみた.しかし,線路跡があるべき場所は道路や学校ができていて,これ以上線路跡をたどることはできなかった.そこから先へも念のために行ってみたが,何分廃止から半世紀も経っているので一度途切れると見つけるのは困難である.線路跡がどの辺りを通っていたのかさえわからなくなってしまった上,折からぽつぽつ降っていた雨が大降りになってきたので帰宅することにした.
 今回は何の下調べもしなかったのだが,武州鉄道についての調査はほとんど行われておらず,また実際に武州鉄道を利用した方々も高齢になっているので,近いうちに聞き込みなどの調査をしてみたいと思っている.

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