廃線めぐり特別編


武州鉄道(埼玉県蓮田市・さいたま市・川口市)/
 2009年5月訪問・キヤノンA620(写真1〜90)
 2010年7月訪問・キヤノンEOSKissX3(写真91〜100)


 70年も前に姿を消した小私鉄,武州鉄道の線路跡を探訪してみた.
 詳細は諸先輩方や各種資料の記述に委ねるが,この武州鉄道は東京と日光とを結ぶ壮大な計画の下に大正末期に開業し,蓮田から川口市神根の間16.9キロメートルを結んでいた.
 結局資金難等の事情により延伸されることはなく片田舎の一路線として早くも戦前の1938(昭和13)年に廃止となる.
 廃線から既に70年が経過し,地元でもこの鉄道の存在を知っている人はごく僅かとなってしまっている.
 実は筆者はこの鉄道のすぐ近くで生まれ育っている.勿論現役時代のことなど知る由もないのだが,筆者の祖父母は実際にこの鉄道を利用したことがあり,幼少の時分から話に聞いたりしてその存在を知るところとなっていた.
 今回紹介する埼玉県さいたま市岩槻区真福寺・浮谷・笹久保地区(旧南埼玉郡柏崎村・和土村→岩槻市)は,現在では鉄道とは全く縁のない地域で,最寄り駅はバスの便で約15分の東武鉄道野田線岩槻か,同じく約15分の埼玉高速鉄道浦和美園(同鉄道開業以前はJR武蔵野線東川口)しかない.交通的には陸の孤島である.
 この武州鉄道がもし廃止されず現在まで存続していたなら,恐らく複線化・電化,更に都心まで延伸されて埼玉県東部から都内への大動脈となっていたことであろう.大宮・川口から春日部・草加辺りにかけての街の地図も大きく異なっていたであろうし,この地区も現在のような鄙びた農村地帯ではなく全く違った発展を遂げていたと思われる.
 しかし,近年の大学開校まで日中のバスの便が1時間半に1本という状況では,まして半世紀以上も前にこの地区でまともな鉄道運輸業を続けることは不可能であったのかも知れない.60年後,埼玉高速鉄道が武州鉄道の役割を一部受け継いだ形になっているとは言え,武州鉄道の南の終点に近い浦和美園から北への延伸は計画のままである.一帯は田園地帯であり土地の取得はそれ程に困難ではないと思われるが,それすら行われていないところを見ると,この地区において鉄道路線を運営する意義が薄いということの証左なのであろう.

 さて,今回探訪したのは武州鉄道の路線のうち,駅名で言うと真福寺から武州野田の間である.武州鉄道というと,どうしても蓮田から岩槻までの北側が紹介されることが多く,この南側の部分が紹介されることは少ない.また,紹介されていても北側に比べて何故か簡単に留まってしまっている.実はこの区間は全路線中で最も線路跡を辿り易くまた遺構も残されているのに,何故か紹介されているのを殆ど見たことがない.著名な先生の編集による廃線探訪の著書でも,この区間は簡単に触れられているだけである.
 確かにこの地区の探訪は比較的難しいと思われる.前述の通り鉄道路線から離れておりバスの便しかなく,また地域としても地味であるため注目されないのであろう.
 しかし筆者にとっては幼少時から長らくを過ごした地元である.余所の人が知らないような畦道でも日常的に使っていたのであり,森の中の獣道の如き線路跡でも行き方は熟知している.
 そこで今回,筆者の地元の地区に絞り,廃線めぐりとして詳細を報告したい.
 とは言っても灯台下暗しという奴で,実は筆者も廃線跡を総体的に真面目に探索したことはこれまで一度もない.今から15年程前の大学時代に暇に飽かして一度だけ自転車で廃線跡をなぞったことがあるが,それとてある日急に思い立って下調べもせず散歩がてら行った程度であり,しかも途中で雨が降って早々に帰宅した記憶がある.それ以外は,何かのついでに少し見て回ったりとか,小学校の社会科見学でほんの一部の区間を歩いたりした程度である.特に,目白大学が作られる以前の線路跡の様子は日常から目にしていたのに,それを写真等に残していなかったのが非常に悔やまれてならない.見慣れた風景こそ疎かにしてはならないという戒めであろう.

 それでは,具体的な報告は写真とその説明をご覧いただくとして,全体的に若干の説明を加えたい.
 武州鉄道の線路跡は,現在の国道16号を渡り少し住宅街を抜け現在の県道蒲生岩槻線に沿いしばらく直進する.途中の真福寺(しんぷくじ)駅を経て国際興業バス浮谷停留所の辺りから県道を左に分けて住宅街に呑み込まれる.すぐにそれを越えて細長い空き地や道路となって国道122号との合流点までほぼ直進する.
 国道16号東町二丁目交差点のすぐ西側を渡った線路跡は,住宅街の中を100メートル程の真っ直ぐな生活道路となり抜け,その先は住宅地となってその区画に殆ど痕跡を残したまま続く.
 現在の国際興業バス真福寺停留所付近で県道のすぐ脇に合流してそのまま直進する.その跡は道路に寄り添う不自然な細長い土地となって残る.  浮谷停留所を過ぎた辺りで県道を左に分けてしばらくの間民家や工場・店舗等の敷地となり,市道を超え畑の中を進み目白大学(1994年開校)に至る.この県道と目白大学との間の土地には今でもはっきりと築堤が残されていて,土地の盛り上がりや樹木の生え方の周囲との違いから明瞭に判別できる.目白大学の入り口からは大学への進入路として美しく整備されて面影はないが,道路がそのまま線路跡に重なっているので路程は容易に確認できる.浮谷駅はこの目白大学へ繋がる道路の中程にあったという.そう言えば,大学ができる前,この区間は掘り割りのようになっていて,雑草の茂った線路跡に一部広くなった場所があったのを憶えている.
 大学構内に勿論線路跡はないが,大学を出ると再び畦道や農道となって現れる.ただし所によっては獣道然としている箇所もあり知らなければ一見判然としない.しばらく行くと線路跡がそのまま鉄工所の敷地となっていて細長い工場の建物が線路跡を覆う.
 鉄工所を過ぎると土地整備により線路跡がやや消失する.他著に「岩槻環境センター敷地を通り…」という記述が見られるが,実際には隣接する「槻寿苑」という老人ホームの敷地を斜めに横切っている.
 老人ホームを過ぎると僅かに市道になりその後は細長い土地となって延々と続く.所々に工場や家屋が建つが殆どは荒れ地になっている.近年は近隣にできた中古車オークション会社「埼玉県中古自動車販売」の商品(自動車)置き場として利用され,舗装された箇所も多い.
 1970年頃まで橋脚が残っていたという綾瀬川を渡ると痕跡は農地や量販店の敷地に同化して判りにくくなるが,国道122号に合流する手前で僅かに姿を現す(因みにこの部分は殆ど紹介されていない).
 合流した線路跡は広大な国道と高速道路に完全に呑み込まれて痕跡は全く見付けることはできない.この国道122号が通る用地は東北縦貫自動車道の開通と前後して約30年程前に整備されており,それ以前がどうなっていたか筆者の記憶にもなく知る由もない.

 以上が今回の探訪の成果である.大昔に廃止されながら現在でもこれ程に痕跡が多く残っているのにあまり紹介されていないのは,やはり場所が地味なのと廃止があまりに昔過ぎて興味の対象になりにくいからであろう.確かに,もし筆者がこの地元の出身でなかったら,ここまで探訪したりしたかどうか判らない.

 ところで,今回紹介した地区でも,遅蒔きながら開発が始められた.唯一の遺構である伝右川の橋台など,特に保存されている訳ではないのでいつまでその姿を留めていられるか微妙である.ここも既に四方から開発の波が押し寄せている.規模としては「裏のどぶ川」程度の川であり,ちょっとした改修工事が行われたり暗渠にでもなれば間違いなく1日で破壊されてしまうであろう.他の線路跡も含め,郷土を走った鉄道ということで何とか保存してもらいたいものである.

 参考文献…「幻の武州鉄道」(岩槻叢書第1巻)郷奇智著・岩槻地方史研究会発行,1976年

 写真をクリックすると拡大します.

※写真および地図上の赤線は線路が存在したおおよその位置を示す(線路跡が判然としない箇所は推定).また,地図上の数字は同数の写真の撮影地点を示す.

武州鉄道
 県道324号蒲生岩槻線分離点〜築堤起点
武州鉄道
 県道324号蒲生岩槻線との分岐部分.現在の県道脇を進んだ線路は,中央の歩道がやや広がっている部分から左手に逸れる県道と別れ,そのまま直進していた.
武州鉄道
 分岐部分.歩道脇がおおよその線路跡と思われる.正面の自動車修理工場の敷地を通り,そのまま向こうに抜けていたようだ.
武州鉄道
 左の車が置いてある自動車修理工場の敷地が線路跡.
武州鉄道
 写真3の地点から現在民家や工場になっている場所を抜け,左の白い塀が終わる辺りから道路を渡り,右側の白い建物の辺りに抜けていた.
武州鉄道
 左の民家敷地をかすめる,白い建物の部分が線路跡か.
武州鉄道
 写真5の地点から正面の赤い屋根の民家がある場所を抜けて市道を渡り,手前の空き地に直進していた.
武州鉄道
 空き地は築堤となって真っ直ぐ続く.
武州鉄道
 築堤には畑が造られたり樹木が立っている.
武州鉄道
 築堤起点〜目白大学入り口交差点
武州鉄道
 廃止から70年を経た今でも残る築堤.線路は右手から左手へ.
武州鉄道
 築堤を俯瞰する.遠くからでもはっきりと判る.
武州鉄道
 盛り土は所々で崩されて途切れているが,残っている部分は周囲と高さが違うのが容易に判別できる.
武州鉄道
 右手の植え込みの向こうから中央の樹木の向こうを通り左手へ抜けていた.
武州鉄道
 右手の樹木と中央の植え込みの向こうが線路跡.
武州鉄道
 紅い葉の植え込みの右側(畑の一部になっている)が線路跡.この辺り,築堤は崩されたのか元々低いのか,土地の高さが周りと同じ水準.
武州鉄道
 正面の緑色のトタン板から手前に抜ける.
武州鉄道
 線路跡を正面に捉える.昔からこのような森であったかのようだ.
武州鉄道
 写真14の地点の後方.
武州鉄道
 線路跡は中央の畑になっている所を通り,正面の森の部分で再び築堤となっている.
武州鉄道
 ここから盛り土となっている.この手前までは崩されたのだろうか.
武州鉄道
 右手から中央にかけてが築堤.
武州鉄道
 盛り土部分の俯瞰.
武州鉄道
 線路は右手に小さく見える赤い屋根の家屋から築堤を通り左手に抜けていた.
武州鉄道
 左手の森の部分が線路跡.この辺りで周りの土地が高くなって築堤と同水準になる.
武州鉄道
 盛り土が終わる部分.正面の森から手前の草の生えている所へ.
武州鉄道
 左手の屋敷の辺りは地平に下りている.
武州鉄道
 写真24の場所から後方を見る.築堤の終わりから市道の交差点までは畑となり線路跡は呑み込まれているが,直線なので位置を推測することは可能.
武州鉄道
 目白大学入り口交差点〜目白大学正門前
武州鉄道
 目白大学正門前〜目白大学構内
武州鉄道
 線路は赤になっている信号機の向こう側から左手の道路の所を通っていた.
武州鉄道
 目白大学の正門に通じる道路が市道と交差する.線路跡は赤信号の左に見える樹木の部分から真っ直ぐこちらに向かい,目白大学への直線の道路に重なる.
武州鉄道
 線路跡を利用して造られた目白大学への道路.以前は目前の横断歩道の辺りにトタン板が立てられてその先は塞がれていた.
武州鉄道
 1990年代初めまでは,この区間は掘り割りのようになっていて線路跡には草が生い茂り,人が踏み込むような場所ではなかった.浮谷駅はこの付近.
武州鉄道
 線路跡はこのまま大学構内に入り込み,奥にある校舎に突き当たって一旦消える.線路は真っ直ぐに大学の敷地を突っ切っていた.
武州鉄道
 写真31の地点から大学の敷地を真っ直ぐ抜けた反対側に当たる場所.樹木の茂っている場所が線路跡と思われる.
武州鉄道
 目白大学構内〜大字笹久保1931番地先
武州鉄道
 大字笹久保1931番地先〜「建起工業」裏
武州鉄道
 写真32の右手の地点から北方向を見る.
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 写真33のやや南側から北方向.この部分は畦道ですらなく,水の涸れた小川のようになっている.
武州鉄道
 写真34の反対側.農道と交差する.
武州鉄道
 この場所からは畦道となってはっきり残る.
武州鉄道
 畦道を進み,写真36の地点を見る.
武州鉄道
 畦道となった線路跡は市道を越えた所で鉄工所(中央)の敷地になる.
武州鉄道
 「建起工業」裏〜「槻寿苑」広場
武州鉄道
 鉄工所は線路跡の敷地そのままに細長く造られている.
武州鉄道
 鉄工所の敷地を抜けて来た線路は市道を渡って更に直進していた.
武州鉄道
 線路は右の鉄工所から市道を渡り左の樹木の向こうに抜けていたと思われる.
武州鉄道
 写真41を西側から見る.右手は市営の老人ホーム「槻寿苑」.
武州鉄道
 鉄工所を抜けた線路跡は中央の資材置き場の貨車の辺りを抜けていたと思われるが,その向こう側の地形が変わっており判然としない.
武州鉄道
 「槻寿苑」から鉄工所と資材置き場を見越す.
武州鉄道
 「槻寿苑」の敷地内.線路は同苑敷地の北側半分を斜めに突っ切っていたと思われる.
武州鉄道
 写真45の地点を敷地外から見る.築堤が地平に下りていたと思われるがその痕跡はない.
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 「槻寿苑」広場〜「石橋紙器」裏
武州鉄道
 「槻寿苑」の敷地を斜めに通り,線路跡は少しの間市道に重なる.
武州鉄道
 線路跡が重なる市道.正面の倉庫のような建物に線路跡は続いていく.
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 倉庫の前から「槻寿苑」側を望む.
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 しばらく市道に重なった線路跡は市道を分岐して左手に直進する.
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 「石橋紙器」裏〜「埼玉県中古自動車販売」駐車場先
武州鉄道
 緑色の建物が線路跡と思われる.県道との分岐点からここまで,ずっと直線である.
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 写真51の地点から細長い敷地となって続く.倉庫や町工場が線路跡の上に建っている.
武州鉄道
 はっきりと判る直線の敷地で線路跡は続く.
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 線路跡は多くが荒れている.この荒れ地の中に未発見の遺構でもないかと探したくなる.
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 「埼玉県中古自動車販売」駐車場先〜「時田建材」裏
武州鉄道
 農道を渡って更に一直線に続く.
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 写真55の右手.中古自動車オークション会場の一部となっている.以前は単なる荒れ地だった.
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 「時田建材」裏〜笹久保新田停留所
武州鉄道
 北側を見る.線路跡は左手の舗装道路ではなく右手の自動車が置いてある敷地.自動車はオークション会社の物.
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 写真57の地点から南側.この先で県道214号新方須賀さいたま線を渡る.ひたすら直線.
武州鉄道
 線路跡には所狭しと各種の自動車が停められている.
武州鉄道
 県道との交差点.中央の家屋も線路跡に収まって建てられている.線路はそのまま直線で右手に抜けていた.
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 笹久保新田停留所〜「プラコー」前
武州鉄道
 県道の向こうに続く線路跡.ここもオークション会社の敷地だ.
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 写真61の線路跡を西側から望む.線路跡の形状から,この場所に笹久保駅があったと思われる.
武州鉄道
 この場所もオークション会社ができる以前は荒れ地だった.
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 200メートル程行った所で舗装が途切れ,市道(手前)に突き当たる.
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 「プラコー」前〜大字高畑589番地先
武州鉄道
 市道に当たる部分.市道との間には側溝と段差があり道路として接続はしていない.線路跡は更に直線で進む.
武州鉄道
 ここもオークション会社の駐車場.線路は舗装されている部分を通っていたようだ.
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 舗装が途切れ,綾瀬川に突き当たる.
武州鉄道
 綾瀬川の河原から北側を見る.
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 綾瀬川を渡っていたと思われる場所.両岸の線路跡の位置関係から,草間に白い物(ゴミか?)が見える辺りが渡河地点と思われる.
武州鉄道
 川を渡る.護岸工事により橋台等の痕跡は一切見当たらない.1970年頃までは橋脚が残存したという.
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 大字高畑589番地先〜「オートウェーブ」駐車場
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 綾瀬川を渡り農地を抜ける.中央に向こう岸の線路跡(自動車のある場所)が見える.
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 唯一の遺構として知られる伝右川を越えていた橋梁の橋台.因みに作物の並びと線路跡はややずれており一致してはいない.
武州鉄道
 向こう岸の橋台も残っている.大変貴重な遺構である.
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 北側の橋台.築堤があったことが窺える.
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 市道を渡った線路は中央のコンテナの辺りを進んでいたと思われる.
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 線路跡は自動車部品販売店「オートウェーブ」の敷地(駐車場)に呑み込まれる.
武州鉄道
 広大な駐車場の隅から再び線路跡が現れる.以前は線路跡にだけ細長く駐車場が出っ張っていたが,最近になって周囲も含め駐車場として造成された.
武州鉄道
 線路跡と「埼玉スタジアム」.巨大競技場に高速道路,廃止当時,この周辺がこれ程に発展するとは誰が想像したであろうか.
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 「オートウェーブ」駐車場〜国道122号合流点
武州鉄道
 駐車場の隅から線路跡は再び姿を現す.低く築堤になっていたようにも見えるがはっきりとは判らない.
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 線路跡に重なり,林の中に事務所や倉庫が建っている.右手が「オートウェーブ」敷地.
武州鉄道
 線路は右から左へ抜けていた.ここも樹木が生い茂り時間の経過を感じさせる.
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 写真81の地点を南側から見る.線路にはずっと畦道が沿っていたのだろうか.
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 線路跡には家屋と空き地が交互に存在する.
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 写真83の南側.家屋は既に使われていないようであった.
武州鉄道
 家屋とその庭の向こうには再び木が生い茂る.
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 樹木が茂り,土地がやや高くなる.築堤であったのか,または後で土を盛ったのかは不明.
武州鉄道
 青いトタン板に遮られてここで一旦途切れる.この先は工場とガソリンスタンドの敷地になっている筈だ.
武州鉄道
 線路はこの敷地の中を通っていたと思われるが線路跡は判らなくなっている.
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 正面は国道122号.左手の建物の場所から陸橋の右手奥辺りに抜けて国道に合流していたと思われるが,合流地点は判然としない.
武州鉄道
 線路跡はこの場所辺りで国道と東北縦貫自動車道(右手フェンスの向こう側)に呑み込まれ,この先川口市神根に至る.勿論,痕跡は一切ない.
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 県道324号蒲生岩槻線分離点〜「岩槻グリーンウッドゴルフ」南
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 現在は倉庫になっている店舗と駐車場の敷地が路盤の跡.
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 線路は現在の県道に沿って西側に敷かれていた.
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 「岩槻グリーンウッドゴルフ」南〜「ヤマト運輸岩槻営業所」北
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 市道を渡り空き地や民家となって続く.
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 現役当時は左の民家の庭先を蒸機やガソリン動車がゆっくりと通り過ぎていたのであろう.
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 「ヤマト運輸岩槻営業所」北〜「小川デンソー」
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 工場の敷地の中に取り込まれるが,再び判り易い区画となって県道から別れていく.
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 住宅地や空き地になっているが,それと判る.
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 「小川デンソー」〜城南3丁目2番地内
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 非常に判り易く家屋が建っている.
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 この場所も判り易い.店舗へのアプローチと店舗がそのまま線路跡.
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 城南3丁目2番地内〜「山二酒店」
武州鉄道
 笹久保方向を望む.住宅街の中の生活道路にしては不自然に幅が広い.国道に接続する道路であるが車の通りなど殆どない.
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 白いガードレールが国道16号.越えた先に見える茶色の屋根の店舗が線路跡.この先も多少だが民家等の敷地にその痕跡が残る.
武州鉄道
 廃線跡ではないが,今も残る武州鉄道の貴重な遺構.旧笹久保駅に併設されていた倉庫の建物を廃止後に移設したものだという.但し何故か,笹久保駅からかなり離れた場所にあり,線路からも若干の距離がある.現在は個人の所有となっているようだ.それにしても,ここは筆者の実家からはすぐの場所であり,幼少の頃からの行動圏内でこの建物の傍を通ったことなど数えられぬ程なのだが,つい最近まで武州鉄道のものであったことは全く知らなかった(2010年6月撮影).



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